【旅189日目】名城・中津城と日本一の夕陽が見えるハズの場所
10/27(日) 晴れのち曇り
おはようございます。昨日は遅くまで飲んでいたので眠たい・・・。友達が職場に行くので気合いで起きて一緒に家を出ます。前は休日にも仕事がずっとあって休みなんてなかったけど、働いている時は皆それが当たり前で、そのことでずっとモヤモヤしていました。自分は自由な時間が作れたことが幸運だと思うし、無駄にせず楽しみたい。それでは今日から九州編スタート、元気にいってみよー୧(๑•̀ㅁ•́๑)૭✧
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門司から東九州を走る国道は10号線です。
九州も時計回りに、大分へ向かっていきたいと思います。
国道10号線は良く大分ー小倉間を利用していました。もう10年ほど前の話か・・・。今では東九州自動車道が開通し、だいぶ10号線を通る車が少なくなったので、かなり快適に進むことが出来ます。
あっと言う間、午前中のうちに約50kmを漕いで中津に到着。やや追い風だったので良いライドだったな~!この辺は平坦なのも嬉しいです。
中津城
まずはその手前にある中津大神宮へご参拝します。
伊勢の神宮の大神様(天照大御神)の御分霊を奉斎し中津城址に御鎮座、 "豊前の国のお伊勢様" として親しまれています。
そして中津城へ。
最近大河ドラマなどで有名になった黒田官兵衛が築城し、細川家、小笠原家を経て奥平家が明治時代まで治めました。
現在の城は昭和39年に作られた模擬天守で、元々のものは西南戦争の際に焼失してしまいました。中津川の河口に作られ、堀には海水が引き込まれていました。今治城、高松城と共に日本三大水城と言われています。
イメージキャラクターのおっくん。
憎めない顔をしています。笑
奥平家は徳川家と密接な関係にあります。
1575年長篠の戦いで奥平家の名は日の目を浴びます。初代貞能(さだよし)・貞昌(さだまさ、後の信昌)親子は武田勝頼15000人に攻められ、わずか500人で長篠城に籠城します。激しい攻撃を受け続けるも降伏せず、落城寸前の状態で織田信長・徳川家康の援軍が到着、鉄砲隊が大活躍して勝利するのです。この武功によって信昌は家康の長女・亀姫と結婚、長男家昌は奥平家を継ぎ、4男は松平姓を名乗り大阪城や姫路城の城主を務めています。一気に大躍進です!奥平家は宇都宮城などを転々とした後に、七代昌茂(まさしげ)が中津十万石の城主として中津城に入り、十五代昌邁(まさゆき)まで155年間にわたり中津を治めました。
白鳥鞘の鑓(やり)
穂先は源氏の弓の名手・源為朝が使用した鏃(やじり)と言われています。徳川家康が織田信長から拝領し、徳川家の家宝とされてきました。当時6歳の奥平忠昌が家康の病状を見舞った際にこれを所望し拝領しました。忠昌は家康の曾孫に当たりますが、やっぱりかわいいんですね。笑 奥平家の行列はこの鑓の威光で特に重視されていたそうです。
平安時代の作ですが、今でも人を殺せそうなくらい輝いています。
長篠合戦図
まさか中津で本物を見ることが出来るとは!教科書で誰もが見たことのある絵ではないでしょうか。
日本において鉄砲(火縄銃)が初めて実戦投入された戦いです。奥平家・成瀬家・徳川美術館・大阪城の4部現存するそうです。いくつかあるのも驚きです。(*´з`)
蘭学も奨励していました。
三代昌鹿の頃、解体新書が出版されました。杉田玄白が有名ですが、共に翻訳した人物に中津藩医であった前野良沢がいます。ドイツ人、ヨハン・アダムス・クルムス著のアナトミッシェ タベレン(Anatomische Tabellen)がゲラルドス・ディクテンによってオランダ語訳されたのが有名なターヘル アナトミア(Tabule Anatomicae)です。それを前述の2人が中心となり日本語へ訳しました。辞書などなく、大変な努力だったそうです。
蛇足ですが、それを踏まえて1858年中津出身の福沢諭吉が江戸の中津藩中屋敷跡にオランダ語塾を設立。1868年移転する際、当時の元号が慶応だったことから慶応義塾と改称しました。
最上階からの眺め。
中津川と海が見え、水城だったことが良く分かります。
中津は田舎と思っていましたが、こう見ると沢山人が住んでいます。10万石の町だっただけはあるんですね~。
黒田官兵衛についても別棟で展示がありました。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えながら、生涯1度も負けなかった軍師で初代中津城主です。息子黒田長政が継ぎますが、福岡に移封となりました。福岡に住んでいるので黒田家の名前はよく聞くのですが、中津城主だったことがあったなんて、全く知らなかった・・・。その後中津城に入った細川家は熊本52万石に移封となっているし、中津は凄い人たちが築いた地だったんですね。
そして、意外な事に中津城は日本百名城に入っていません(続・日本百名城に選出)。こんな凄い歴史のある城なのに・・・百名城を周っている訳ではないですが、その選考基準が知りたいものです。(*´ω`)
中津城・・・フラっと思いつきで寄ってみたが、なかなか良いところだったぜ。入城料400円をケチらなくてよかった!笑
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さて、次の町は宇佐。ここにも素晴らしい神社、是非訪れなくてはならないところがあるのです。
ようこそ宇佐へ!
宇佐は神輿や神仏習合発祥の地です。
宇佐神宮
来るのは3回目くらい?今回は西参道(昭和初期までの表参道)からご参拝します。
呉橋
昔、中国・呉の人が作ったものらしいです。河川の拡張工事の伴い、コンクリート橋が追加されています。
その横の橋を渡っていきます。
日曜日なのに意外と人は少ない・・・。まぁ田舎ですからね。( ;∀;)
上宮
お詣りは二礼四拍一礼、出雲大社のように少し特殊です。
御祭神
一之御殿:八幡大神 (はちまんおおかみ) - 誉田別尊(応神天皇)
二之御殿:比売大神 (ひめのおおかみ) - 宗像三女神(多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命)、筑紫の宇佐嶋(宇佐の御許山)に天降られたと伝えられており、地主神。
三之御殿:神功皇后 (応神天皇の御母)
宇佐の地は畿内や出雲と同様に早くから開けたところで、神代に比売大神が宇佐嶋にご降臨されたと『日本書紀』に記されています。八幡大神は応神天皇のご神霊で、571年(欽明天皇)に初めて宇佐の地にご示顕になりました。725(神亀2)年、現在の地に御殿を造立し、お祀りされました。
窓から見える山の中に奥宮があり、ここからもお詣りできます。
下宮へ。
お祀りされている神様は上宮と同一です。上宮は国家の神、下宮は庶民の神とされており、上宮しかお詣りしないことを宇佐では "片参り" と言います。どちらもお詣りすることが望ましいそうなので、是非両方行きましょう!
境内はとても広くて素敵。
伊勢神宮に次いで皇室の信仰が厚いところです。
なんとなく好きな神仏習合のポスター。
宇佐神宮の周囲は出雲大社や伊勢神宮と対照的に全く土産物屋はなく、静かなところです。だから人が少ないのかな?コレはコレで静かだし良いところだと思います。
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宇佐神宮を後に、(全国に沢山ある)日本一の夕陽を見に行きます。丁度時間的にも良い感じかも!楽しみなところだったんです。
真玉海岸
干潮時に砂浜がゼブラとなって、とても美しい夕陽がバックに沈むところ・・・。
うん、雲が沢山!夕陽は厳しそうだ。笑
ですが綺麗なゼブラが出ていて満足!割と興奮して色々場所を変えて写真を撮っていました。(*´▽`*)
写真を撮りに来ていたり、沢山のカップルが見物に訪れていました。しかし風が強くて肌寒いぜ・・・。
夕陽はちょっと今一つ。本当は海岸で夕陽を眺めながら野宿しようと思っていたのですが、風が強すぎてテントが壊れそう。夕陽撮影は諦めて道の駅まで走ることにしました。
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国東半島はまずまずアップダウンとトンネルがあって大変です。今日もナイトランをかまして道の駅に到着。風を防ぎたいので早めにテント張って中に引きこもります。
う~冬装備持ってきてないからな。このまま寒くなり続けると少し考えなくては。( ;∀;) シュラフにくるまっておやすみなさい。( ´O` ) ~.。o。゚
明日は大分市内へ。久しぶりの地にワクワクしています。
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<データ>
出発地 小倉友人宅 8:15
到着地 道の駅 みくに 18:10
走行距離 104.12
総走行距離 10075.26
平均速度 19.8
最高速度 49
獲得標高 630
<支出>
朝食
昼食 234 カップ焼きそば パン
夕食 549 弁当 お菓子
飲料 159 カルピスぶどう
食料品 198 ラーメン もやし
宿泊 道の駅 みくに
使用金額 1140